勇敢な男は自分自身のことは最後に考えるものである。
女は男に欠点があるからこそ愛するのだ。 男に欠点が多ければ女は何もかも許してくれる。 我々の知性さえもだ。
男は自分の知っているたった一人の女、つまり自分の妻を通して、 女の世界全体をいい加減に判断している。
もう一日くらい待ったなら、 自分の婚約者よりももっと好みに合った 理想的な女性が見つかるかもしれないという気持ち。 どんな男でもこうした気持ちを抱いているものだ。
男というものは元来多妻主義だ。 心ある女は、男の気まぐれによる過失をいつも大目に見る。
私が女より男を好きなのは、彼らが男であるからではない。 彼らが女でないからである。
愛の舞台に上って馬鹿らしい役割を演じるのは、いつでも男だ。
老年は男女間の友情に最も適した時代である。 なぜなら彼らはその頃には、 ちょうど男であり女であることを止めてしまったからである。
男はある女の愛人でありうるときには、その女の友人である事はない。
これが男というものです。計画だけはみんな悪者ですが、 そのくせ実行となると、弱気になって、それを誠実だというのです。
男というものは、女房が小難しいことを喋っているときより、 自分の食卓にうまい料理があるときのほうがもっと嬉しいものである。
男が本当に好きなものは二つ。危険と遊びである。 そしてまた、男は女を愛するが、それは遊びのなかで最も危険なものであるからだ。
男の人生にはいくつかの節目がある。 童貞の喪失、結婚、子供の誕生、好きな女の笑顔。
男というものはつねに女の友であることは決してありません。 他に愛する女を持っているときは別ですが。
自己侮蔑という男子の病気には、 賢い女に愛されるのがもっとも確実な療法である。
ライオンの雄にはたてがみがあり、孔雀には豪勢な羽があるが、 人間の男には三つボタンの背広しかない。
男というものはいつでもそうだが、我が家から離れている時が一番陽気なものだ。
女がいなかったら、男は神のように生きていくだろう。