私は神に会う覚悟はできている。 私と会見するという厳しい試練への準備が神の側でできているかどうかは別問題だが。
私自身の一部分は恐怖と困惑ともって死をながめ、 他の一部分はまず好奇心から、 とりわけ美と愛が充実して現われるのをみたいとの渇望から、 死を望んでいる。
我々は、大人も子供も、利口も馬鹿も、貧者も富者も、 死においては平等である。
死者も我々がまったく忘れてしまうまで、本当に死んだのではない。
人間的に言えば死にもよいところがある。 老いに決着をつけねばならないからだ。
人間は九ヶ月かけて生きる準備を整えるが、 人間を死に導くには一瞬の間しか必要としない。
人間は、死、悲惨、無知を癒すことができなかったので、 自己を幸福にするために、それらを敢えて考えないように工夫した。
死とは、私達に背を向けた、光のささない生の側面である。
死は救いとは言いながら、そうは悟りきれぬものである。
人類はまだ未成年であり、死は一つの未成年者誘拐である。
死んで誰一人泣いてくれるものもないくらいでは、 生きがいのないものだね。
人生は素晴らしいが、人生の終わりは死である。 これは、いかなる人の望みの究極でもある。
カミソリは痛い、水は冷たい、薬は苦い、銃は違法、縄は切れる、ガスは臭い。 生きてる方がマシ。
人はだれしも、 自分自身の生涯を一人で生き、 自分自身の死を一人で死ぬものです。