死は救いとは言いながら、そうは悟りきれぬものである。
神はこの世の終わりを決めている。 だが我々は、その声を聴いてそれを避けることができる
死んで誰一人泣いてくれるものもないくらいでは、 生きがいのないものだね。
我々はときおり、 悪夢から目覚めた瞬間に自らを祝福することがある。 我々はおそらく、死んだその瞬間をみずから祝福することであろう。
人間は、死、悲惨、無知を癒すことができなかったので、 自己を幸福にするために、それらを敢えて考えないように工夫した。
どこで死が我々を待っているか分からないのだから、 いたるところで待とうではないか。 死を予測するのは自由を予測することである。
生死などは何でもない、つまらない事柄なのだ。 ただ、生きていく態度が重要なのだ。
臆病者は本当に死ぬまでに幾度も死ぬが、 勇者は一度しか死を経験しない。
眠い人が眠るように、 瀕死の人は死を必要としているのです。 抵抗が間違いで無駄だというときが、いずれきますよ。
もし本当に死の精髄を見たければ、 生の実体に向けて心をいっぱいに開きなさい。 なぜなら、川と海が一体であるように、生と死は一体だからである。
死者も我々がまったく忘れてしまうまで、本当に死んだのではない。
私が死んだ時、私のために泣いてくれるというのなら、 私がまだ生きているうちに哀れんでくれ。
私は生きているときに、死以外のあらゆるものに対して備えをしていた。 今、私は死なねばならぬ。そして、まだなんの備えもない。
我は生きようとする生命に取り巻かれた生きようとする生命だ。