死とは、私達に背を向けた、光のささない生の側面である。
天が私にあと十年の時を、いや五年の命を与えてくれるのなら、 本当の絵描きになってみせるものを。
死を願望するものは惨めであるが、死を恐れるものはもっと惨めである。
僕が死を考えるのは、死ぬためじゃない。生きるためなんだ。
哀しみで自分をすり減らしちゃいけない。死んだ人は死んだ人。 人生は生きている者のためにあるのだから。
死ぬなら楽に死ぬ。 苦しむなら治る。 どっちかにしてもらいたい。 苦しんだ上に死ぬなんて理屈に合わぬ。
どこで死が我々を待っているか分からないのだから、 いたるところで待とうではないか。 死を予測するのは自由を予測することである。
最初に自殺しようと考えた人間は、人生を永遠に侮辱してしまったのである。 人生は大いに気を悪くしている。
死のうと思っていた。 今年の正月、よそから着物一反もらった。 お年玉としてである。着物の布地は麻であった。 鼠色の細かい縞目が織り込まれていた。これは夏に着る着物であろう。 夏まで生きていようと思った。
神はこの世の終わりを決めている。 だが我々は、その声を聴いてそれを避けることができる
死の持つ恐怖はただ一つ。それは明日がないということである。
このところずっと、私は生き方を学んでいるつもりだったが、 最初からずっと、死に方を学んでいたのだ。
私が死んだ時、私のために泣いてくれるというのなら、 私がまだ生きているうちに哀れんでくれ。
生死などは何でもない、つまらない事柄なのだ。 ただ、生きていく態度が重要なのだ。
我は生きようとする生命に取り巻かれた生きようとする生命だ。
我々が誕生を喜び、葬式を悲しむのは何故か? 我々がその当人でないからだ。