人間は、自分が考えるほど不幸でもないし、それほど幸福でもない。
苦しい時には自分よりもっと不幸な男がいたことを考えよ。
それ自体の不幸なんてない。 自ら不幸を思うから不幸になるのだ。
人生の小さな不幸せは、 我々が大きな不幸を乗り越えていくのを助けてくれる。
どんな不幸のなかにも幸福がひそんでいる。 どこに良いことがあり、どこに悪いことがあるのか、 我々が知らないだけである。
不幸はこれを語ることによって軽くすることができる。
不幸な人間は、 いつも自分が不幸であるということを自慢しているものです。
不幸なる人々は、さらに不幸な人々によって慰められる。
不運な時に幸福な時代を思い出すことほど辛いものはない。
人は自分が幸福であることを知らないから不幸なのである。
人間には幸福のほかに、 それとまったく同じだけの不幸がつねに必要である。
不幸はナイフのようなものだ。 ナイフの刃をつかむと手を切るが、とってをつかめば役に立つ。
スプートニクに乗って、宇宙に飛ばされたライカ犬のことを思えば、 僕の不幸なんてちっぽけなモノだ。
人はおおむね自分で思うほどには幸福でも不幸でもない。 肝心なのは望んだり生きたりすることに飽きないことだ。
もしある人が自分の不幸な出来事について話したら、 そこにはなにか楽しんでいるものがあると思って差し支えない。 なぜならば、本当にみじめさだけしかないとしたら、 その人はそんなことを口にしないだろうから。
我々は、自ら幸、不幸をつくって、 これに運命なる名称をつける。