人間の自由を奪うものは、悪法よりも暴君よりも、実に社会の習慣である。
個人の自由もつぎの点では制限されねばならない。 つまりかれは外の人達にたいして厄介なものになってはいけない。
自由を放棄することは、人間としての資格を放棄することである。 人間としての権利を放棄することである。 すべてを放棄する人にとっては、いかなる補償もありえない。
山は動かざれども、海は常に動けり。 動かざるのは眠の如く、死の如し。しかも海は動けり。 常に動けり。これ不断の覚醒なり。不朽の自由なり。
われわれの自由とは、今日、自由になるために戦う自由な選択以外のなにものでもない。
吾人は自由を欲して自由を得た。自由を得た結果、不自由を感じて困っている。
ほんとうに大切な自由はただ一つ、「経済的な自由」がそうだ。
完全な自由というものは、 生きていても生きていなくてもまったく同じになったとき、はじめて得られるものなんです。
互いに自由を妨げない範囲において、 我が自由を拡張すること、これが自由の法則である。
間違いを犯す自由が含まれていないのであれば、自由は持つに値しない。
人間は、時には自由であったり時には奴隷であったりすることはできないであろう。 人間は常に全面的に自由であるか、あるいは常に全面的に自由でないか、 そのいずれかである。
立法者にしろ革命家にしろ、平等と自由とを同時に約束する者は、 空想家か、さもなくば山師だ。
人間は生まれたときは自由である。しかるに人間はいたる所で鉄鎖につながれている。
人は自由を得たのち、いくらかの歳月を経過しないと、 自由を用いる方法を知らないものだ。
もし自由社会が貧しい多数の人たちを助けることができなければ、 富める少数の人々をも決して守り得ないであろう。
どんな政治的自由があっても、それだけでは飢えたる大衆を満足させない。
人間を自由にできるのは、人間の理性だけである。 人間の生活は、理性を失えば失うほどますます不自由になる。