自由を放棄することは、人間としての資格を放棄することである。 人間としての権利を放棄することである。 すべてを放棄する人にとっては、いかなる補償もありえない。
互いに自由を妨げない範囲において、 我が自由を拡張すること、これが自由の法則である。
どんな政治的自由があっても、それだけでは飢えたる大衆を満足させない。
人間を自由にできるのは、人間の理性だけである。 人間の生活は、理性を失えば失うほどますます不自由になる。
完全な自由というものは、 生きていても生きていなくてもまったく同じになったとき、はじめて得られるものなんです。
もし自由社会が貧しい多数の人たちを助けることができなければ、 富める少数の人々をも決して守り得ないであろう。
アダムは自由が欲しかったから食べたのではなかった。 禁じられていたからこそ食べたのだ。
われわれの自由とは、今日、自由になるために戦う自由な選択以外のなにものでもない。
自由であることは、自由であるべく呪われていることである。
人間は、時には自由であったり時には奴隷であったりすることはできないであろう。 人間は常に全面的に自由であるか、あるいは常に全面的に自由でないか、 そのいずれかである。
間違いを犯す自由が含まれていないのであれば、自由は持つに値しない。
人は自由を得たのち、いくらかの歳月を経過しないと、 自由を用いる方法を知らないものだ。
他人の自由を否定するものは、自ら自由を受けるに値しない。
小さな一時の安全を買い取るために大切な自由を放棄する人間は、 自由を受けるのに値しない。
人間は生まれたときは自由である。しかるに人間はいたる所で鉄鎖につながれている。
個人の自由もつぎの点では制限されねばならない。 つまりかれは外の人達にたいして厄介なものになってはいけない。
自由は山嶺の空気に似ている。どちらも弱い者にはたえることはできない。